福島新聞より
大正14年 青森県弘前市生まれ
2024年2月27日、母は99歳になりました。
子供の頃の話など、
細切れに聞いたことは有りますが
しつこくしつこく
掘り下げてインタビューしてみました。
ところどころ記憶が曖昧だったりして
正確さに欠ける部分もあるかもしれません。
いつもは眠たがってばかりの母が
昔の話を始めると饒舌になり
懐かしそうに楽しそうに語ります。
兵隊さんの宿泊所
母の家は軍隊に味噌や醤油を納める問屋。
母曰く古いけどとにかく部屋はたくさん有った。
部屋が沢山有ったので
雛人形は一年中飾りっぱなし。
招集された兵隊さんたちは
基地?の宿舎で寝泊まりしますが
場所が足りずに民間人の家にも
寝泊まりしたそうです。
母の実家にも10人の兵隊さんが
宿泊していたそうです。
10人が寝泊まりできる広い部屋が有ったので。
軍隊からは、いくばくかの食費などが
支払われましたが
たぶん、赤字だったでしょう。
宿舎に適合しない狭い家の人からは
やっかまれたりもしたようです。
基地から戦地に部隊が出発すると
宿舎に空きができるので
そこに戻って行ったそうです。
出征前夜
兵隊さんたちは出征の前日には
休暇がもらえるそうですが
たった一日なので
遠隔地の実家には帰ることができません。
近所に遊郭が有って
そこに繰り出す人もいたようです。
母の家に以前宿泊していた5人が
その夜訪ねてきて
「ご飯食べさせてください」って。
全員が全員遊郭に行くわけではない。
突然言われても、現代のように
冷凍食品があるわけでもないし
ウーバーが有るわけでもない。
祖父(私から見て)が
料理屋さんを営んでいる友人に頼んで
お膳を用意したそうです。
またまた赤字です。
園芸部?演芸部?
母は高等女学校で園芸部に所属。
子供のころ住んでいた社宅の庭には
沢山の植物が植えられていました。
園芸部だったから。
戦地から負傷して帰還した兵隊さんたちのために
病院に慰問に行ったそうです。
演芸部と間違われてなにかやらなきゃ!
音楽の授業で習った歌を歌ったそうです。
その時に母の家に滞在していた兵隊さんがいて
(たぶん実家から送られてきたのか)
沢山お土産を貰っちゃったそうです。
母のお仕事
敵機来襲の早期発見のため
県内各所に監視哨(かんししょう)が有り
その情報は監視隊に送られ
そこから各機関に連絡されます。
男性の出征に伴い
隊のトップを除くメンバーは女性になりました。
当時役所から監視隊の人員の
募集が有り勧められて加わったそうです。
でも、断らなくてよかったと。
翌年から、1つ年下の女の子たちは
軍需工場で働き(働かされた)ました。
その仕事は4日に一回の出勤で
朝8:00~翌朝8:00までの24時間勤務。
と言っても24時間起きていたわけではなく
交代で仮眠をしていました。
ちなみに家からは徒歩5分。
監視哨~監視隊~軍隊の連絡は
ホットライン(直通電話)だったそうです。
当時一般の家には電話は無く
母の家は商売柄有りましたが
交換を呼び出して番号を伝え
つないでもらう時代。
監視隊で働いた話は
何度か聞いたことが有ります。
双眼鏡で空を監視し
シルエットで敵機かどうかを判断する。
高い火の見やぐらにでも登って・・・
って妄想していましたが
敵機を発見するのは監視哨の仕事で
実際に高いところに上って
監視していたそうですが
母たちが寝泊まりしていたのは
警察署の2階建ての建物でした。
監視隊のメンバーには
憲兵隊長の娘や部隊長の娘もいました。
※きっとコネだと思います。
ドラマの世界だとこういうお嬢様は
たいてい意地悪で嫌な奴なんですが
ふたりともよくしつけられた、
良いお嬢さんだったと言っていました。
もしかしたら戦後は
肩身の狭い思いをしたかもしれません。
ちなみに監視隊ではお給料が
出たそうです。
アメリカ軍のビラ
アメリカ軍がビラをまいたという話は
聞いたことが有ると思います。
日本が今どんな状態に置かれているか、
爆撃の予定などが書かれていて
軍部としては都合が悪い。
それを拾ったら速やかに警察に届け出て
所持していることが分かると
憲兵隊に引っ張られとと言うのは
映画からの情報です。
母たちが(たちって他には誰?)
農家に野菜を貰いに行ったとき
そのビラを見せてくれたそうです。
そこには今後爆撃される場所が
書いてあったそうです。
弘前市はそのリストに入っていなかった。
検索したところ・・・・
青森市は空襲で多くの犠牲者を出しました。
市民たちは米軍のビラで
爆撃が有ることは知っていましたが
軍隊は疎開することを許さなかったそうです。
消火など人手が必要だったから。
疎開した者には
食料の配給をしないという手段で。
空襲で多くの命を奪ったのは
アメリカ軍の爆撃ですが
疎開させなかった日本軍は
間接的と言えども
同じ重さの罪があるのでは。
終戦当日
祖母(私から見て)が倒れ
母は看病のため
監視隊から休暇を貰って家にいた時
丁度終戦を迎えました。
その日の朝一人の将校がやってきて
※将校・・少尉以上で部隊指揮官
祖父(私かから見て)のBSAと言うバイクを
譲り受けたいと言ったそうです。
当時軍人には逆らえないですよね。
テイのいい横取りっぽく聞こえます。
その直後に玉音放送が有るという通達。
※玉音放送・・天皇の肉声による放送
ドラマなどの世界では
内容の意味が解らなかったとか
どんなありがたい
お言葉が聞けるのかとか
思ったなんて言うシーンを
見たことが有りますが
実際、軍の幹部は戦争の状況も把握していて
察しがついたようです。
何が有っても戦争は止めない。
若い者たちだけで戦う。
明日、バイクを取りに来ると言って
その将校は帰って行きましたが
戻っては来なかったそうです。
バイクと引き換えにと言って持ってきた、
お米と缶詰は
家族でおいしくいただいたそうです。
終戦をむかえ、監視隊は解散となり
備蓄していた食料などは
みんなで分けたそうです。
看病で休暇を貰っていた母のところにも
仲間が届けてくれました。
それぞれの時代
いつも思うのは
どんな時代にどこに生まれるかで
人生が大きく変わるという事。
そんな意味では
母が育った時代は
私や私の子供たちが育った時代とは
全く別の世界感です。
身内に80代後半の方がいたら
きっと戦中の事を
明確に覚えていると思います。
戦争の悲惨さは
体験した人たちがこの世を去っても
映画や小説などで伝え継ぐことができます。
普通の人たちの日々の暮らしのエピソードは
映画などではメインにならないようなテーマ。
だからこそ、この特異な時代の証人に
話を聞いてみるのは興味深いことです。